Saturday, January 28, 2006

・殆どの人間は生善説である。教義としても生悪説というものは少ない。尤も自爆テロのような、全体のために自己の生を捧げる例は、すくなくないが。神風とか、戦争とか。この考えが強く否定されなくてはならないのは、自分の生ではなく、他人の生に自分の思想を押し付けることだ。

・私は自殺を否定しない。しかし、安易な考えで自殺することは認めない。死ぬための強い個人的な理由が必要である。それは、生きるに着いても強い何かが必要であるのも同じである。子供を育てるでも、西洋音楽史を書くでも何でもかまわない。現代は、生も死も希薄になっていまいか。勿論ただ生きるだけでもたいしたものだ。しかし、レゾンデートル、存在価値、何故自分は生きるのか。その問いが、自分に問われているか。もしその問答の結果、自殺を選んだのであれば一概に否定はしない。

・ガイア理論と、利己的遺伝子。この次はこのせめぎあいを取り上げてみたい。

Tuesday, January 24, 2006

・友達がマイベストオブベストを発表してたので、倣って見たい。
1.薔薇は新しく。:デュファイ作曲。シャンテクリア
2.ミサ・パンジェ・リングア・ジョスカン=デュプレ作曲。ジャヌカンアンサンブル
3.十字架上の7つの言葉:シュッツ作曲。マウエスベルガー
4.ディクシット・ドミヌス:ヘンデル。20歳のときのもの。シックスティーンズ。
5.バード、ギボンズの鍵盤音楽:グールド演奏
6.ロ短調ミサ;jsバッハ。ミュンヒンガー
7.ピアノ協奏曲27番;モーツアルト。ハスキル、フリチャイ。
8.大地の詩;マーラー。ワルター、ヘフリガーの新盤
9.レクイエム;ベルリオーズ。バーンスタイン、アンバリッド・ライブ。LD
10.シュピラール;シュトックハウゼン。フェッター。大阪万博・ライブ
無論すばらしい曲、演奏は多々あるけれど、神がさいころを振っても外せないものを一部紹介した。

Friday, January 20, 2006

・ニジンスキーが日記の中で、私は神であると書いたとき、彼は、神であった。ニーチェが神は死んだと書いたとき、彼もまた神であった。この考えはゲーテからリルケを超えるドイツ流汎神論で理解される。

・人間たちは、その存在の不安に、絶対的なもの、絶対的な真理をおきたがり、一神教とはその座に神を置き擬人化した。人が神に似せて作られたのではなく、人に似せてて神が創造されたのである。

・中世の秋によると、当時美しさは光と感じられてきた。ブルゴーニュ公国で、その代表が、デュファイやオケゲムである。今日その美しさを単純に光と捕らえることはわれわれには出来ないが、その永遠に流れて行く静かな美しさは、バッハや、モーツアルトに負けない完成度の高さを感じさせる。

Tuesday, January 17, 2006

神はさいころを振るか

以前ホームページで西洋音楽史を作成しようと思ったことがあったが、まじめにやりすぎて、100年も進まないうちにダウンした。そのとき思ったが、私には、断章形式がふさわしい。それならブログのほうがやりやすそうである。場当たり的に書くなら、日記だし、ピカソだって、私の絵は日記であるといったではないか。タイトルは、アインシュタインの有名なせりふから取った。仏教は否定するだろう。因果律が破れるからである。したがって、手塚治虫も火の鳥の歴史観からは否定すると思われる。そもそもは、いくらか胡散臭いハイゼンベルグの不確定性原理の導入によって始まったと、私は単純に思っているのだが。しかし量子力学抜きでは、現在の科学が生き抜けぬ以上、神はばくち打ちと思ったほうが、よさそうである。このことは、これからも見え隠れする命題である。19,1,2006 遠藤幹哉

・クラシックはよく古典と訳されるが、寧ろ歴史、或は芸術史と訳したほうがふさわしい。その変遷は一    般の人間の意識に先んずる。われわれはまだロマン派に生きている。

・ニーチェは、自分は80年後に理解されるといった。確かに理解するものは、現在少なくはない。
しかし、ニーチェの世界に住むものは殆どいない。